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2011年5月7日

2011年5月 7日 (土)

演劇で私がしたいこと

地震のことを、
それから演劇のことをずっと思っています。
 
地震以降、色々な方が色々なことをおっしゃっていて、そのたびに色々と考えさせられています。
 
演劇に関る方々もそれぞれ「今、演劇人として〜」ということをご意見されていて、僕も何か「今、演劇人として、私はこうです」というようなことを発表しなくてはいけないのではないか、と考え、
いや待て、
と葛藤し、今日に至ってしまいました。
  
何か
「私の意見はこうだ、と決まりました」
と発表してしまうと取り返しのつかないことになるのではという恐怖がどこかであったのです。
  
それでもここにコレを書き記しておこう、とするこの行為に至れたのは、なんとなく、今漠然と感じている違和感をきちんと「違和感がある」と記しておこう、というのと、あと「少なくとも私はこうではない」ということの確かさはあって、それは自分の役者としての立ち位置を見つめ直すために、自分のために記しておこう、と思ったからです。
  
自分のためです。自分のためにコレを書きます。
  
なので、わざわざこういった場で発表することでもないです、ね。
なんですが、
たぶんどこかで誰かに読んでもらいたい、という気持ちもあるんですね。どうしようもなく。
わがままですか。
そうですね、わがままだと思います。
 
  
  
地震が起きて今日まで。
  
「立場」があって、本意とは別にあるポーズとして、世の啓蒙のために善意やある種の使命感でもって発言しておられる「権威」のある方々もいらっしゃるとは思いますが、実に多くの方が今回の地震に触れ、「自分は、今のこの世情の中だからこそ、演劇をやります」と発言し、「こんな時だからこそこの作品を観ていただいてお客様に少しでも夢を、希望を、笑顔を与えることが出来たらと」というようなことを発表されていました。
その、それぞれのご意見を聞き、読み、僕はその度に「立派である」と感じつつもどこかで違和感を感じ続けてきました。
   
僕は自分を「エンターテイナー(パフォーマンスなどを披露し、観客を楽しませる或いは笑わせる人)」と自覚していません。僕はしがない、ただのいち役者でして、舞台の上で芸を披露しているのでもありませんし、観客を笑わせる目的で演劇を創っているわけでもありません。ただ、そこにいる役と向き合い、そこに居ることで作品の一部としてそこにあろう、としているだけです。
役者の仕事を、演劇の役割を、『「夢」や「希望」を与えること』と捉えることは自由です。
それ自体は素晴らしいことだと思います。
ですが、スイマセン、僕はそれを目的に「演劇」を創りたくありません。
『夢や希望を与えるために、笑顔を持って帰ってもらうために』作られる演劇作品は素敵だと思います。きっとそこにはある種の力があると思います。
ですが、そういった啓蒙を目的としない作品というものもあって、そこにはまた別の魅力がありはしないだろうか、と僕は考えます。
「そこに生きるひとたちの姿をただ真摯に描く、夢や希望だけでなく現実や絶望やこの世の理不尽やらなんやらぜんぶ包んでそこに切り取ってみせる」そういう演劇はダメでしょうか。
そういう演劇は必ずしもひとの見たいものを提供しません。ときに見ている人を傷つけ心に傷跡を残し不快感を与えます。しかし結果として、それがより深く、強く、「何か」を感じるきっかけになる作品を産むのではないか、と思っています。
その「何か」が、夢や希望でなくっても、なんであっても、そこにお客様の心を強く揺さぶる何かがあれば、それが「演劇」としての意味と思っています。
その「何か」を僕ら作り手が限定してしまうことに、僕は、何とも言えない寂しい気持ちがあるのです。
こういった世の現状の中で演劇人として何ができるのかを自らに問い、そういった結論に至った方々の志は立派だと思います。
しかし僕は「こういった世情であるからこそ僕らは演劇を通して世のため人のためになるのだ」という姿勢にはどうしてもなれません。
それでは「こういった時用の演劇」と「そうでない時用の演劇」が別にあるということ?となってしまいやしませんか。
それに「夢や希望を『与える』」という表現も、どうも上から目線のコトバのような気がしてなりません。「夢や希望を失ったあなた達に僕ら『持っている』側が与えてあげるよ」という風に聞こえます。が、そうでしょうか?僕らはそんなにスタアなのでしょうか?
  
僕は震災で被害に遭われた方も免れた方も皆、地続きの関係だと思っています。
一次的に「支援する側」「される側」という関係性があっても本質的には持ちつ持たれつの関係だと思います。
僕は、僕らと地続きの、世間のどこにでもいる誰でもない人間たちの営み、生活をそこに表しその時間を生きることで「演劇」を創ってきた(こようとした)と思っています。
それには力があり、「何か」を産み出せると信じてやってきたと思います。
それが結果的に「今の世情」を映す鏡のような作品になるのだと思ってやってきました。「こういった世情だからコレをやる(べき)」と思ってやっていたのではないのです。
   
演劇で私がしたいことは、そういったスタンスの上に成り立つものではありません。
ただそのことを、ここに記しておこう、と思いました。
   

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