« 2009年12月31日 | トップページ | 2010年1月3日 »

2010年1月2日

2010年1月 2日 (土)

少し、見えてきたが

演劇、は何か。

というところからスタートしてみた。

まず、演劇は集団で作る総合芸術ではあるが、どこまでいってもそれは個の世界を出ない。

むしろ個の世界に向かうものなのではないか、という気がしていて。

よって演劇、は「ある種の本質」には向かえるが、「真実」には到達しないのではないか。

つまり演劇的価値は普遍性を持たない。

「いい芝居を創りたい」とか

「いい芝居を創るため」だとか言うが、言ってきたが、

それは作り手側が意識できることではない。

もし作り手側にその形が見えているとすれば、それは固まった価値観が見せる幻影だと思う。

「いい」か「悪い」かは演劇にはない。

だが作り手は自分の創るものが「いい」と思いたがるし「面白い」と感じている(ことが多い)。
「面白い」は実感だから「いい」と違いリアリティがある。確かなものに感じる。

それゆえ「面白い」→「いい」となりがちなのだと思う。

でも前述の通り演劇が個の世界に向かう芸術だとすればそこにはただ、「世界」があるだけで良し悪しという普遍性は意味をなさない。

良し悪しがあるとすればそれは「その人にとって」という個人的な感想なだけで他人に対する強制力をもたない。

で、そのことはなんとなく皆解っていることであると思う。

だが、それなのに作り手側は自分の創るものが「いいもの」であると思いたがる。

自信。

自信はたぶんさっき出たように「面白いから」が支えている。

そして「面白さ」は何か、と考えを進めていくことになる。

「面白さ」も時代性はあるものの普遍性はない。

人により時代(年代)により「面白さ」は異なる。

「面白さ」は観客の感じる感覚であるから、同じく作り手側には決めることはできない、

が、

「面白さ」は意識することができる。

作り手側は「面白さ」は「コレだ」と定義し捉え、それを人間の身体と空間と時間の中に再現することには挑戦できる。

そして大抵の場合それが実現できていると思っている。

だから自信につながるわけだ。

『俺は面白いことが出来ている』

しかし、その自分の思う「面白さ」が伝わっているかどうかについて作り手側はわりと盲目に感じる。

観客にとって「面白さ」は様々だ。

どうだろう、

「面白さ」とは何か、という問いかけから導かれる答えはどれだけ同一性を持つだろうか。

「面白さ」とは何だろう?

・笑いの構造があることによって笑えるシーンがあり笑うこと、だろうか?

・感動的なシーンが涙を誘い泣くこと、だろうか?

・美しい顔立ちの俳優、女優が望むことをしてくれる様をうっとりして見ること、だろうか?

・作品に隠されたメッセージや教訓を自然と実感させられる構造で感銘を受けること、だろうか?

・夢と希望を与えてくれる内容で楽しい気持ちにさせてくれること、だろうか?

・舞台上の人物に感情移入できて物語を追体験できること、だろうか?

・数々の複線が次々と回収されていく様が痛快でエンターテイメント性を感じること、だろうか?

・物語、台詞が難解でその難解な物事を自分なりに解釈し「分かった気になる」こと、だろうか?

・自分のひいきの俳優、女優が期待通りに活躍する様を満喫し、人にどう素晴らしいか分かったように話すこと、だろうか?

何だろうか?何なんだろうか?

僕が思うにそのどれもがきっと「面白さ」であり、「面白さ」ではない。

「面白さ」とは曖昧で不確かでその瞬間瞬間は捉えられるものの、証明することのできない蜃気楼のようなもの、だと思う。

例えば今僕は「許容を超えたり、無防備な精神状態の中にいる人間(生きているように見える人間)」に興味があってそれを感じることが「面白い」と感じていて、同時にそれ以外のことにあまり興味がない、という特殊な状態で、作品を観る時も「技術、演出で制御された人間(役者)」を面白いと感じず、そういう人物(役者)が立っている作品をその時点で見限り、「面白くない」と断罪してしまうが、でははたして作り手側にそんなことが、そんな観客がいることが想像できている人がどれだけいるだろうか?

例えば極端な話だが顔の表情豊かな人間を見ることのみを「面白い」と感じる観客がいて、その作品がなんらかの理由で無表情な人物しか出てこない場合はどうだろうか?作り手側がそれを確信的にやっていた場合、その観客に面白さを伝える自信は持てるだろうか。

俳優は作品の「面白さ」を寄りどころにしてはいけないのかもしれない、と思う。

「面白い」と思ってはいけない、ということではない。

むしろ作品に関わる上では「面白い」と思った方がいい。

だが、その「面白さ」に普遍性や持続性、観客に伝わるであろう、という過度の自信を持つことは危険だ、と思うのだ。

ホント言えば、世界の成り立ちから考えなくてはいけない。

たぶん演劇に関して考える色々な問題はそこから始まっている。

世界は一つか、数えきれないが有限か、無限か、

ここから考えなくてはいけない。

とりあえず、

「面白い芝居」と「そうでない芝居」というものを決める普遍的な物差しがあるわけではない。

作り手側がそれぞれに「これが私が見る(面白い)世界の様相である」という提示に力を注ぎ、観客がそれを受容し「そうだ」と思うか否か、という現象がある、それだけ、

というのが演劇の姿なのかな、というところまできている。

作り手側はそれ以上を望んではいけないのかな、と感じている。

その中で俳優のモチベーションはどこに向かうべきなのだろうか。

べき、ということはないのか、

自分が、

どこに向かうことが健康、と感じるか、ということ。

俳優はクリエイターなのだろうか?

その辺がどうも分からない。

俳優は役を「創る」のだろうか?

そうだとすると僕にはなれない。

俳優は「表現」をする職業ではない、というのが僕の今の考え方だからだ。

しかし、時に俳優はビジネスの現場において「表現」を求められてはいないだろうか?

ここだ。

ここでいつも行き詰まる。

| | コメント (0)

« 2009年12月31日 | トップページ | 2010年1月3日 »