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2009年10月20日

2009年10月20日 (火)

「価値」とは何か

世の中には「価値」がたくさんある。

これは「価値」がある、とか言う、し思う。

「美しい」、「素晴らしい」、「かっこいい」、「カワイイ」、みんな「価値」で出来ている。

でも「価値」っていう概念は観念だから、それは人によって作られたものなわけだ。

作られたもの、ということだからそこには意志がある(のか?)。

つまり絶対的・普遍的なものじゃないということ。

それを証明するように時代によって、人によってその「価値」を決める基準が異なる。

ある人には美しいものもある人には醜く見える。

ある人には善意の行動でもある人には悪意の行動に写る。

でも人はみんな自分が特別(でありたいというよう)な感覚を持っているから自分の(こうだ、と)思っている「価値」からはなかなか離れられない。

自分の見ているものを信じてしまう心を手放せない。

自分の信じているもの以外にも同価値(ここでも価値だ)の真実がいくつも他にあるのは知っているが、自分の信じるもの、見えてる世界を疑うことはとても怖いし、それは自分じゃなくなる感じがするし、つまりそのために「価値」から逃れなくてはいけなくなって、その状態だと生きていくのがとてもしんどい。

それ以前に「価値」は普遍的でない上に観念だから、その存在はあやふやで、もしかしたら、

無い。

「価値」があるかどうかという以前に、「価値」という概念自体がもともと「無い」、のだとすると(いやたぶん本質的には無い)、いよいよ世界は虚無に満ちてくる。

大人になるとそういう自己に内包せざるをえない世の本質みたいなことを抱えながら、でも一方でこの社会で前向きに生きていくという社会が示唆する正しい価値観を無理矢理信じてでも生き物として適応していかなくてはいけない。

「価値」を疑いながら「価値」を信じていく。 

あー「生きていく」ってしんどい。

いや、その階段を上がっていくイメージそのものが錯覚で、僕らはただ、産まれてこのかたずっと転がるように「死に続けて」いっているのかもしれない。

  

昨日観た五反田団の『生きているものはいないのか』と前田司郎さんのアフタートークを観て、そんなことを感じて、書いてみた(ので記事中のいくつかのセンテンスは前田さんの発したコトバを引用しています)。

既に戯曲を読んでいた作品だったが、読んだのと観たのでは少し違った。

前田さんの作品は不思議で観てる時は笑ってしまったりくだらなかったり、なんか可笑しい。

でも一方で知るとしんどくなる世の本質を観ることにもなってゾッとしたりもする。

つまり、え、

世の本質は、可笑しいのだろうか。

本質的なものを観る時、可笑しいと感じているのか僕は。

可笑しさ、って何なんだろ。

  

立蔵葉子さんの美しいのに陰気な質感が好きだ。

可笑しい。

でもこの感じも僕の持ってる芝居観・価値観でそう思ってることだから錯覚かもしれない。

かもしれないが「ホンモノ」と思うトコロを信じておきたい。

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