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2009年7月14日

2009年7月14日 (火)

生身と繋がっている感覚

生身と繋がっている感覚
12日(日)はマチネ終わりだったので夜は五反田団が毎年密かに開催してる(らしい)五反田怪団という怪談の公演へ。

写真はアトリエヘリコプターに飾ってあったゆでたまご先生のサイン。マジスゲー。

「怪談」と言っても五反田団の怪談ですからただの怪談話の羅列ではなく、見終わって思い返すとこれはどちらかというと演劇作品でありました。

6月の乞局で共演させてもらった青年団の立蔵葉子さんも出演されてて、浴衣姿で登場すると完全におばあちゃんちの日本人形みたいな恐さがあって笑いました。

立蔵さんは乞局の稽古場でも感じましたが不思議な魅力を持つ女優さんです。

薄幸の美女、のようでもあり根暗なニヒリストのようでもあり(立蔵さんのファンの方スイマセン、他意はないです)、佇まいや人当たりが非常に柔らかで優しいので油断しがちですが、稀に人を刺しそうな目をしている時があるので怖いので気を許さないようにしています。あ、当たり前ですが僕みたいなボンクラよりはるっかに才能ある女優さんです。

なのでそんな立蔵さんは怪談にはうってつけの人材でしょう。

怪談は前半は出演者が一人ずつ前に出てエピソードを語るいわゆる怪談の形式で、休憩を挟んで後半は出演者全員が共通体験したエピソードをみんなで語るという流れ。

前半の怪談で語られるエピソードは一見どれも怪談話として成立しそうな恐さがあるものばかりなのですが(実際役者さんの話術に押され恐怖心を煽られたりもするんですが)、よく聞いてるとどこかとぼけたところや肩すかしを食らう要素があって、最終的な着地点が恐さにならない感じが面白かったです。

アパートの部屋で怖い霊的体験をしたというエピソードの後、普通に2年住んで更新が来たから引っ越した、とか(う〜ん、なんかうまく伝えられないが)。恐怖して掃除機のノズルを持って応戦しようとしたとか。

それぞれのエピソードの後に入る前田史郎さんのコメントやつなぎ的なものも可笑しかったです。

あのスタンスは何なんだろ、基本的にどっか人を馬鹿にしてるっていうか。

後半の9人(だったかな)での「呪われた石をある神社に除霊してもらいに行く話」は圧巻でした。

たぶん完全な創作なんだと思うんですが、地名や情景、車でのルート、リアルな言い間違えとか思い出しとか誰と誰が先に行っててそれはバイトがなかったからとかあとのメンバーが吉祥寺のレンタカーで車を借りて出発したけど渋滞に巻き込まれて沼津に着くのが遅くなって合流が遅れたとか細部のディテールが鮮明すぎるほど鮮明で、起きる出来事の不条理さやそんなファンタジーな、ってエピソードの数々が完全な体験談として語られていました。

特に先に着いたメンバーとあとからくるメンバーとで携帯が繋がらなくて連絡が取れなかった、あれは何でだったんだよ、いや俺は悪くないんだけどさみたいなくだりの多重会話が面白くて、それぞれの言い分や主張の仕方、発言のタイミングも含めすごい高密度な完成度とリアリティを持ってて私笑ってしまいました。

(立蔵さん曰わく稽古があったらしいので)これにもたぶん台本があるわけでつまりこの高密度な立体多重会話が計算で成り立っているとしたら、これはリアリティを完成させるにものすごい労力のいる作業なわけですが、そしてそれが達成されて完全にそれぞれが日常のように好き勝手に主張したり言い訳したりして「人がしゃべって」いるように見せているわけですが、そのたいへんな労力をかけて創られるのが、このくだらないやり取りの空気ってところがたまらなく素敵なわけです。

というかまず、行ったこともない場所に行って起きた出来事の細かいディテールを全員が共通記憶として持っている(ように見せている)ことがすごい。ここ素通りしそうになっちゃったけど。

基本的に。

怪談てまぁ作り話じゃないですか(と霊を冒涜するようなこと書いて祟られないか心配ですが)。

それをまるで本当にあったことのように話すのが怪談で、だからそれは演劇の芝居の作業とほとんど同じなんだけど、じゃあ役者だったら誰もがコレできるか、っていうとそうじゃなくて、

いや、

たぶん、役者なら誰もが

「怪談をしている芝居」

をすることはできると思うんだけど、

「怪談をしゃべって話す」

ことは限られた人にしかできないと思う。

ま、どっちにしても芝居してるわけだから同じことと言えば同じことなんだけど、ここに出演された方達は皆さん完全に自分の記憶をなぞってしゃべっているようにしか見えなくて、だからちょっと「そんなことあるわけないでしょ」的な無理のある不条理な事象も説得力を持ってくる、というか。

確実にその人の記憶が見ている情景は、それはもう疑いようがないわけで。

その辺はたぶんイメージする力の問題だと思う。

『グラップラー刃牙』という格闘漫画(今はシリーズが変わって『範馬刃牙』なんだっけかな)があって主人公のバキがイメージで作った架空の対戦相手(例えば巨大なカマキリとか)とシャドーで戦うというシーンがあるんだけど、バキのイメージする力が凄すぎて目の前に視覚化されたカマキリに傷付けられると実際に肉体が傷を負って、流血したりするわけです。

イメージトレーニングで怪我しちゃダメだろ、そんなん有り得ないだろう、と思うかもしれないけど、僕は想像力が現実を凌駕する程の存在をもつことがあるのは事実だと思っていて。

(ま、バキの例は極端だけど。)

そういう特化した想像力の強さがあの身体をつくって、「しゃべる」ことを可能にしているんだと思う。

これは役者が芝居に説得力を与えたいなら想像力を鍛えるべし、ということの証明だと感じていて。

勿論、現代口語演劇と言われるものやアングラと言われるものでは芝居の質が違うので見え方は時々で変わるが。

大事なのは、想像力を働かせる、イメージするって行為は「自分の脳の働き」であるということを意識すること。

主観的感覚の能動的な働きだっていうこと。

これは物まね的な芝居やキャラ的なものを守ろうとする芝居、台詞の間や言い方を意識し過ぎる客観性の強い環境からは遠いものだと思っていて。

想像の世界に浸かってモノをしゃべるにはその時の身体や心に内在している「自分の意志」が必要だと思う。

これがないとやっぱり「しゃべって」いるようには見えなくて「お芝居」になる。

これは油断すると途端に失われてしまうので本番中常に自分の意志がどこに向かおうとしているのか、目の前の光景に何を感じているのか、にアンテナを立てなくてはいけない。

これはもう散々っぱら言われてきたことで、頭では分かっているのだけど、なかなかそこに行き着けない。

その辺が才能の違いっていうか、僕と今回の怪談に出ていらした方々との差なんだと感じて

あぁ、そうか

と思う。

  

まったくの余談だけど、

13日の劇場入りの時劇場前のミニストップのとこで自分そっくりの人とすれ違う。

そっくり、というか見てすぐに

「俺だ」

と思ったのでもうそっくりとかいう域は超えていたように思う。

顔は僕そのもので髪型まで一緒、服装は違うもののTシャツに短パンのスタイルは一緒で靴はなんかゴムっぽい素材の革靴みたいな色のサンダルだった。

その僕そっくりな人を見たのはミニストップで買い物をして出たすぐで、吉祥寺シアターの方から僕の方へ歩いてきているところで。

見た時はすでに目の前2メートルぐらいのところにいて、

僕はその人を見るなり

「俺だ」

と感じて驚いて立ち止まり思わずその人の顔を凝視してしまった。

顔は完全に僕そのものでまるで鏡を見ているようでその鏡に写った自分が意思とは関係なく動いているような感じだった。

その人はついっと僕とすれ違い十字路を左に入っていった。

その間どのくらいだろう3秒くらいか。

僕は恐くなって吉祥寺シアターまで早歩きで逃げて楽屋に入ったのだが入りが早かったからかだれもいなくて一人楽屋で超恐かった。

  

思い返して不思議なのは、

通常目の前の人間がビクッとなってガン見してきたら反射的に相手の顔を見ようとするというか、何かしらのリアクションがあるように思うのだが、その俺とおんなじ顔をした人はまるで僕の姿が見えていないかのようだったこと。

ちょっと視界に入っている感じではなかった。

まるで無視されたような感覚で。

  

アレはいったいなんだったんだろ。

前日に怪談があったから、霊的ななんかが寄ってきてるんだろうか。

怖い怖い。

  

楽屋でそのことを話したら、そういうのをドッペルゲンガーと言うそうです。

3回ドッペルゲンガーを見ると魂がのっとられてしまうのだそう。

へー。

やだなぁ。

  

ちなみに僕は霊感はありませんたぶん。

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