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2009年5月4日

2009年5月 4日 (月)

「シェンムー」原崎望の芝居について

 中古》【DC】シェンムー 1章 横須賀 (初回版)ドリームキャスト     

特にコレといった理由もなくDC(ドリームキャスト)を引っ張り出して「シェンムー第1章横須賀」をプレイしたりしている。

1999年に発売された古い作品だが未だその魅力は輝きを放ち続けていて、プレイしていると時間を忘れてしまう。

こんな、「ただ、そこにいる」ということに「楽しさ」を感じるゲームって僕にとってそうない。

このゲームの中には世界があって、人がいて、生活がある。

会話があって、感情があって、リアクションがある。

大筋のストーリーに直接関係のない人達にも主人公との間に関係性があって、距離感があって、組織やコミニティをもっていて、ポジションがある。

そういうことを感じるということ、

つまり「自分の外界である世界」「社会」に自分が能動的に関わり、するとそこには何かが生まれていく、それは何かと言えば「心」であったり「絆」であったりすると思うのだが、そういうものの存在を肌で感じていく、ということは「喜び」「楽しさ」に繋がっている、

というゲームをする(一人部屋の中で閉じこもる)ということのイメージとは逆のベクトルにあるものを「ここ」で表現する、しようとする、ということに「シェンムー」の「凄さ」はあって。

改めて一つの街にある、その圧倒的な情報量、生活が生み出す雑音の多さに驚き、楽しさを与えてくれるモノ達に感謝する。

今でこそこういった箱庭ゲーム(「グランド・セフト・オートシリーズ」や「龍が如くシリーズ」)は珍しくないが、当時はゲーム界に革命を起こす程の衝撃が走った。と思う。

そして今でも僕の心を捉え続ける、最新の箱庭ゲームにも勝ると思うその要素は、人々の垢抜けない生活感を感じさせる顔の造形や、下町的泥臭さ、臭い、のようなものだろうか。

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(稲さん、おこずかいいつもありがとう)

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(母猫を亡くした子猫に餌をやる涼さん)

数々のエピソードがいちいち思い出深い。

  

もちろんしっかりゲームとしても面白く、遊び心に溢れているところがいい。

その辺が繰り返し遊べるモチベーションになっていると思うし、商品としての質の高さだと思う。

ラーメンや、漫画や、芝居もそうだが、ある高い完成度を持って世に出たもの、人の心に食い込んだもの、というのは10年やそこらでは消えない、しむしろ身体の中で熟成して新たな発見を誘発していくような、そんな気がする。

そういうモノ創りには「力」がある。「力」を感じる。

  

余談だが、当時1章横須賀のヒロイン的な存在(といっても主人公は鈍感過ぎてその想いに気付かないのだが)の原崎望

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の声が明らかに声優的な芝居とは違う異質さがあって、巷では「棒読み」だとか「下手」だとか言われていたが、僕は気にならなくて。

で、僕も芝居をする側になって改めて原崎望(役の安めぐみさん)の芝居を聞くに、やっぱり特に気にならない、というか、逆に素敵だとすら思っていて。ダメですかね。

感情を無理に出さない、抑揚や演技することを意識してない感じが、都会的でない、近所に住む距離感のある友人という存在にリアリティを与えているように思う。

  

シェンムー動画を一応貼っておきます↓。

  

うん。面白い。

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