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2008年11月8日

2008年11月 8日 (土)

「憎しみの持続」について

最近ちょっと体調くずしていてとりあえず布団で横になって、でも眠るに眠れず考えにふけっていたときに思ったことのメモ。

  

まずどこから思い返せばよいのか。

「憎しみ」という感情についてから。

「憎しみ」とはなんなのか、ということを改めて考えてみると、自分の中で曖昧にしていたことに気付く。

※「憎しみ」・・・憎く思うこと。またその気持ち。

※「憎い」・・・気に食わない。腹が立つ。

んー。

僕が欲しい答えじゃない。

僕が考えるに「憎しみ」とは、何かに抗うために固執する心、関りを断ち切れない存在への払拭できない強い感情、のようなものではないかと思う。

「愛する」というコトバと同義語(陰と陽のように相反しながらも同居するコトバ)である、とはよく聞く話で、人間の根源的なエネルギーの源泉のようなコトバだと思います。

しかし、どうもその辺が明確に見えてこないな、と思って、それはどうしてかというと、日頃自分という存在を認識する上で、僕は自分の根源的な生きるモチベーションを「憎しみ」から産出していると自覚していた部分があって、それはかなり自我意識に関る重要な問題だったのですが、どうもその自分から産まれる「憎しみの持続」に限りがあるということが最近分かって(相対評価として気付いて)、「アレ?」と思ったわけです。

「どうも俺が「憎しみ」と自覚している感情よりもみんな(芝居の登場人物達を含む)の持つ「憎しみ」の方がより深く、「持続時間」も長いのではないか。」

と。

そしてそういった(特に芝居で観る生きている)人達の方が憎しみが深い分、より愛情も深く、より真摯にこの世界と向き合って生きているように思うのです。より輝かしく生きているのではと。や、そう感じますのでこれはきっとそうなんです。

「憎しみ」の深さ、と持続時間は比例する。

そして「憎しみ」の深さは「愛情」の深さに比例し、外界に対する己の関りの根の長さも比例していく。

ということか。

つまり「憎しみ」の持続が出来ない(すぐまぁいいかと関りを断ってしまう)僕はそれだけ自分の外側の事象から引いた場所に立っている、と言えるのではないか。

そういう生き方はストレスを回避できる故、自分を守る生き方としては賢いかもしれないが本質を感じとる力を得るには遠い。

僕にはもっと深い「憎しみ」が必要だ。

絶望する、というのは簡単な解決策だがそれは役者の選択支としては「逃避」に受け取れる。

もっと人としてこの世界に対し、強く抗えるだけの力と成りうる力が欲しい。

そのために僕に足りないのは自分も含めた周りの世界に対してもっとこうであろう、と「要求していく心」、つまり「希望」ではないか。

「憎しみ」を得るために「希望」を探す。

なんだかよく分からないことになってきた。

でも多分そういうことだ。

この世界ともっと深く関ろう、真摯に向き合おうとするにはそれに見合う「苦しみ」が伴う。

その「苦しみ」に侵食され引き裂かれる身体でも生きて正気を保つために、より深く関ろうとするモチベーションと成りうる「強い憎しみ」が必要なのだ。

例えば恋愛が人を成長させるとしたらそういうことなのではないだろうか。

んー。

「強い憎しみ」。つまりは「強い愛情」ですか。

どっかに落ちててパッと拾えたら楽なんですが。

それを得る道のりを観るとナイフが四方から飛び出ていてそこを通ると身体引き裂かれながら進まなくてはいけないので本当に憂鬱です。

でもなぁ。

多分そこに行けないと演出家が求めるいい芝居は臨めないんすね。僕の中で。

  

しかし、体調が悪いと考えにふけってばかりになってしまうのでいけませんね。

気を付けよう。

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