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2006年8月7日

2006年8月 7日 (月)

自分のことというのは

意外と自分では分からないものである。

例えば僕が「自分はそこそこよい役者である」と認識していたとしよう。

しかし周りの人達の10人に9人が「いや、アイツは役者としては全く駄目だ」と認識していたら、それはまぁおそらく多数派の意見が正しいということが多いし僕も自分の見解に疑いを持たざるを得ない。

例えば僕が「自分は人の痛みの分かる人間だ」と認識していたとしてもやはり周りの10人の内9人が「アイツは人の気持ちが分からんやつ」と認識したならそれは『僕は人の痛みが分からんやつ』なことになってしまう、そう考えを改めざるを得なくなってしまうことが多いわけだ。

いや勿論勝手な話だ。

他の人が何と思おうと自分はこうだ、こうなんだ、と自信を持って認識していればよい、という風にも思う。

だが他人があってはじめて自分がある、という側面もあり、そうおおっぴらに他人の見解を無視するというのも難しいのが現実ではなかろうか。

例えばTV番組でスタジオの観客達が出てきたタレントに「かわい〜」と言う。 そのタレントは小劇場出身で苦労顔で歳も50に差し掛かり一般的には渋さの光る装いであったとしても、何故かスタジオの観客というのは大抵「かわい〜」だ。

「趣きがある〜っ」や「いぶし銀〜っ」という言うことはない。(まぁちょっと言いにくいか・。)

で、その言われたタレントは「自分はかわいい人間ではない」と認識していたとしよう。

だからそう言われて驚くであろう。

『え?俺がかわいいだと?』

しかしそのタレントは観客達に向かって

「いや、俺はかわいくない!よって発言の撤回を要求する!」などと主張することはない。

『俺は自分をかわいくないと思ってきたがもしかしたらかわいいのかもしれない。』もしくは『俺は断じてかわいくないが、勝手に言うがいいさ。』と思って、自分と他人の認識のギャップを何らかのカタチで受け入れて行くのである。

人間は多かれ少なかれそうやって自分が考える自分の認識と他人が見ている自分の認識のギャップに揺れながらいいところで折り合いを付け、時に反発し、時に巧く利用したりしながら生きているものであろうと思う。

そう考えると『自分』というモノの考え方も少し柔軟性が出てくるものだ。

他人が見ている自分も全ては受け入れがたいものの自分にとってよい部分もあったりする。

ならばまぁそっちの自分もちょっとは俺の一部として扱ってやろうと考えたりする。

自分はこうなんだから、こういうことはしまい、と決めつけずにたまには他人が見ている、望む自分に歩みよってやってもいいかもしれないな、などと思えてくるのである。

しかし、やはりそうは言っても自分という人間は始終一緒にいるだけにより見える部分もあり、なかなか違った自分像を受け入れることはできないものだが・。

   

そういえば今日の出来事だ。

ふと自分のへそを見ると窪みのところが部分的にふやけていた。

他はふやけていないのにへそだけがふやけていたのだ。

おそらくこの暑さで汗がずっとへそに溜まり、池のようになっていたからであろう。

僕は何より「へそがふやけている」ということが驚きで、なんとなく滑稽で、しばらく凝視してしまった。

しかし不思議なのが「へそもふやける」ということを人生始まって28年、ずっと気付かなかったことだ。

今までも夏場汗はそこに溜まっていたであろうに・。

何というか、可笑しいやら情けないやら。

僕のなかで「ふやけ」はちょっと情けない感じなんです。

その響きといい。

「ふやけ」 ですから。

あぁ、今はまだ『へそがふやける自分』を受け入れてあげることが出来ません。

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ブックオフありがとう

漫画とか本とかけっこう売りました。

880円になりました。

給料日まで生きていけそうです。

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最近ハゲ

てきたともっぱら噂の僕です。

カプサイシンとイソフラボンを一緒に摂取するといいそうです。

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